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● 丸谷秀人のつぶやき千里・第81回

 私は昔、ある球団のファンであった。
 2回だけだが球場に観戦に行ったことまである。ちなみにその時、その球団の同じ
先発投手が投げて、2回とも、その投手がホームランを打ち、一点は取られた物の完
投した。4−1と11−1だった。
 野球中継には最後までつきあい、中継が終わってしまったらラジオで聞くほどには
熱中していた。今では信じられないことである。
 だが長じて、その球団の体質が嫌いになって……いや、そんなのは後付で、自分の
好きな選手が余り使われなくなったせいで徐々に見る気をなくし、それに伴い、今ま
では気にならなかったその球団の体質の悪い面が色々と目につくようになって、気づ
けばファンでなくなっていた上に、野球中継も全く見なくなり、今ではシーズン中で
すら、どのチームのどの選手が中心選手かどころか、首位のチームすら気にならない
有様になった。野球への関心そのものが見事に消滅したのだ。私はその球団のファン
であって野球のファンではなかったのだ。
 次に大リーグの中継を見るようになった。好きな球団も出来、その球団が優勝する
のも見届け、なかなかに盛り上がったのだが、3年くらいで熱狂が冷め、この国の野
球と同じ程度にしか関心がなくなった……つまりほぼ無関心になったのである。
                                      
 で、今はサッカーである。とは言っても、この国のサッカーにはほとんど関心がな
く、もっぱらイングランドのサッカーである。
 たまたま何年か前のワールドカップで、常に状況が流動するから目が離せない面白
さに魅了され、それから中継を見るようになった。見始めると、徐々に選手の顔を覚
え、最初は見分けがつかなかった黒人選手の顔もしっかりと見分けられるようになり、
いつのまにか贔屓のチームまで出来ていた。そのチームの制服が、小学生の頃、着せ
られていた寝間着にそっくりで、私がそのことを言ったものだから、うちではそのチ
ームのことを家人まで『ねまき』と呼ぶようになった。『またねまき見てるの? 』
『うん今日は、結構てこずってるけどまぁ勝ってる』みたいな会話が繰り広げられる。
選手のみなさんには聞かせられない会話だ。しかもそのチームが見始めた年に優勝し
たもんだから、うはうはで、その優勝がこれまた劇的だったんで特番まで見て、放送
があるたんびに録画して見るようになった。ネットのニュースでも、そのチームの選
手の名前が出ると、目が吸い寄せられクリックしてしまう。野球中継を見ていた頃は、
録画なんて出来なかったし、ネットもなかったのだから世界は変わった。しみじみ。
                                      
 だが、この特に好きなチームが出来るというのは、一種の呪いではなかろうか。
                                      
 なぜなら、好きなチームが出来る前は、野球なりサッカーなりを純粋に見ていたよ
うな気がするのだ。だからこそその面白さに魅了されたはずなのだ。
 でも、好きなチームだの選手だのが出来ると、見方が変化してしまう。そのチーム
が勝てば喜び負ければ悔しがる、という辺りまでは良い。だが、そのチームが負ける
と試合までつまらなかったことになるのは問題ではなかろうか。確かに客観的に見て
いい試合というのはある。特に好きでないチーム同士が戦っている時などは、そうい
う視点を持つことができる。だが同じような『いい試合』で、結果的に好きなチーム
が負けたらどうだろう。口では『まぁなかなかいい試合だったね』なんて言って見る
が、内心では面白くないのだ。これは私の心が狭いからなんだろうか。
 さらによくよく考えると我ながら不思議なのは、好きなチームのライバルチームに
対して、いつのまにやら激しい敵愾心を持つようになったことである。そのチームに
も結構好きな選手がいるんだけども、もはやその活躍をそれほどは楽しめない。ライ
バルチームには常に負けて欲しいと思っているし、勝たれると不愉快ですらある。や
はり私の心はそこら辺の水たまり程度に狭いのだ。
 そして、今までの経緯からして、そのチームに関心がなくなったら、サッカーにも
関心がなくなるのだろう。そしてまた違うものへとふらふらと関心が向かうのだろう。
                                      
 でも、これは変ではなかろうか。
 俺は野球がサッカーが好きになった(どちらも見る専だが)はずなのに、いつのま
にか、そのチームだけを愛するようになっている。他にもいい選手がいっぱいいるは
ずなのに、彼らにはそのチームの敵として以外の関心がなくなっている(まだサッカ
ーはそこまではいっていないが。おそらくそれは、サッカーは野球とは違って、幾つ
もの国にそれぞれのリーグがあるからかもしれない。ワールドカップもあるしね)。
どんどん視界が狭まり、モノが見えなくなっていく。ジャンルそのものを楽しめなく
なっていく。
 これは野球やサッカーにかぎらず、他のことに関しても同様で、なにかを好きにな
ると、それが世界の中心になり、その好きなことが中心になって世界が回るようにな
り、他のことは意識の辺境においやられるか、敵という形でひどく歪んだ像を頭の中
で結ぶようになる。敵対心が肥大し、それの悪いことばかりが目につく。
 だが多分、その敵は、単に好きなものの反動に過ぎず、頭で結んだ像ほど、邪悪な
ものではないんだろうというのが今までの経験から判るのだが、その渦中にいる時は
全く判らなくなってしまう。よくないことである。
 よくないのは邪悪だからではなく、世界が見えなくなるからだ。
                                      
 こちらとあちらだ。いつのまにかどこかで本人すら判らないことをきっかけに世界
が2つに分かれる。自分はこちら側で、こちら側でない奴らはあちら側。目に見えな
い境目。それが出来た瞬間、世界は瞬時にして歪み、それ以前の世界とは明らかに変
わる。いや、世界は何も変わっていないのに、脳内で世界がぐにゃりと歪む。世界は
分裂する。白と黒に。身内と余所に。味方と敵に。
 そもそも言葉は世界を別けてひとつひとつに名前をつけて生まれたものだと言う。
どんなに恐ろしい獣も、一度ライオンと名をつければ、それは未知の怪物ではなく単
なるライオンになる。だとすれば、この世界に境界線を引いてしまうと言う行為は、
人間の性分であるのかもしれない。そして恐ろしいことに、この境界はいつのまにか
脳内で引かれ、気づいた時にはもはや、消すことができない。消える時は、自分がそ
の対象に興味をもたなくなった時だけである。同時に愛着も憎しみも消える。
                                      
 別けずに愛着をもつことはできないのだろうか。そうすれば世界を丸ごと味わえる
のに。それはどんなにか素晴らしいだろう。とは思う。だが、自分はそういう人間で
は無いらしい。おそらく思い込みが激しいのだろう。
                                      
 という具合に、たまにふりかえっては、ちょっと反省するのだけど、結局、私は心
が狭いので、また同じ様なことを繰り返すのだろう。多分、一生。
 そして今日も『ねまき』は勝っていたので、満足満足。


2014/12/19



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